「ここからじゃない?」
私に対するその言葉が、どれだけ胸の奥深くに響いたかを、うまく説明ができない。
11年前に派遣社員をやめざるを得なくなって、ヨガを仕事にすることに対する不安は、常につきまとっていたかもしれない。
見て見ぬふりをしているうちにコロナ禍がやってきて、何もどうにもならなくなるかと思いきや、どうにか乗り越えた。
仕事と言ってもぬるい仕事だったから、乗り越えられたのだ。
利益を追求するだけの仕事なら、ヨガでない方がよかった。
ぬるま湯につかっているうちに、のぼせて溺れてしまった。
自分で思うのは、そんなイメージである。
それでもやめなかった。
一度として、たとえ理想とはかけはなれていても、それをやめようとはしなかった。
家族にやるなら稼いでほしい、稼げないならやめてほしいと言われても、稼げなくても、やめなかった。
ただ、妥協した。
その結果、身動きが取れなくなりそうになった。
それでも、やめなかった。
ヨガ講師をやめないことは私にとって最優先ではなかった。できなくなったら休もうと、いつでも思っていた。
できなくなりそうで、そうならならなかった。
ヨガ講師として綱渡りをしてきた先に待っていたのは、人から見ればひどい現実だったかもしれない。
だけど今の私は、いつでも今の私に納得している。
すべては今の私のために起きたこと。
無理やりのポジティブシンキングはヨガではない。
ただ、ありのままを見ること、それができない自分をも、そのまま見ること、見ること、見ること。
「見るものと見られるもの」
はじめて、プルシャとプラクリティの話を聞いたときには、宗教的だと思った。
見えない世界を肯定するための、強引な宗教のような気がした。
だけどそれは違うと、学べば学ぶほどに気づいて行った。
映画のスクリーンでしかないはずの私は、スクリーンに映された映画を私だと勘違いしている。
そんな解説を何かの本で読んだ。
深海には静けさしかないのに、波立つ海面が自分の人生であると勘違いをしている。
そんな説明も受けた。
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会社員として働く傍らしぶとくヨガ講師を続けている私に対して、信頼する人が言った冒頭のセリフは、その通りだと思ったから響いたのだ。
私がなんのためにヨガ講師を続けているか。
来てくれる人に、体操を教えるためではない。
それは11年前から一貫している。
自分の中に一貫していることがあることに気づいたのは最近である。
ありのままを見ること、見ること、ひたすら見ること。
ここからだと思ったその日、名づけようのない自分のヨガに、はじめてオリジナルの名前を付けてみた。
また引っ込めるかもしれないし、変えるかもしれない。
サトヴィカ・ヨガセラピー。
ヨガセラピストとして私がいくつかの候補をあげるでもなく直感で選んだのは、とてもシンプルなクラス名だった。
ほかに、名づけようがなかった、それが理由である。
今、ここはとても静か。
転居を控え、なかなかに家の中はカオスな状態、それでも、静か。
私たちのとりあえずの居場所は地球、宇宙。
居場所なんて概念はないのだ。誰かが例えたように、まっさらなスクリーンであり、深海である。
だから、静か。
サトヴィカ・ヨガセラピーをたとえるなら、静かなヨガ。
これまでのオンラインクラスにくわえ、エポック中原での対面クラスも再開します。
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何度も洗濯したらしわが取れなくなってしまったオリジナルバッグ。
スピーカーやパロサントの香木を携えて、エポック中原に向かいます。