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小話の廃止という決断 加藤香耶

2019/08/29

ここ2年くらいでしょうか
何度もこのブログに書こうとしては消した内容があります。

レッスン冒頭の、小話を辞めます。
(今日のブログは、「小話」が何であるかわかる方に向けての発信です)

「ヨガとは平等の境地である」とは、ヨガの経典バガヴァッド・ギーターの一説。
何が良くて、何が悪いなんて、判断をしなくなることが「ヨガの境地」であるならば、今の私が経典の言葉として伝えたいことは、そのノー・ジャッジということだけ。
身の回りで起こったことにジャッジをしなくなったら…
こんな困ったことが起きて!でもヨガの叡智でこんな風に良い結果になりました!という、小話が生まれなくなってしまったというのが正直なところです。
だから、ここ1年くらいの小話では、思ったことや感じたことをひたすら伝えてきました。
そして参加される方とのコミュニケーションの時間でもありました。小話を聞いている方の内側やエネルギーの状態に共感して、話の続きを紡ぎだす時間。

たかが小話です。だけれども何年もずっと、大切にしてきました。されど小話です。
辞めたければ、自然消滅させればいいのではないかとうもう一人の自分の囁きも、何度も聞こえてきました。
いらなくなったんだったら、捨てればいいじゃないかと、そんな風に簡単に捨てられるものでは、ありませんでした。
2年前まで、私のヨガ人生は、小話がすべてでした。
2013年から4年間所属していたスタジオで、小話にコミットし続けてきました。
ヨガインストラクターがポーズを練習するのは当たり前です。身体がある程度健康であれば、誰にでもできることです。
身体が健康でなくても、動けない時でも、ヨガ哲学は実践できます。マットの外のヨガです。
私は身体が動かなくなってどうにもならなかった時は、ヨガ哲学に関する本を読むことと、瞑想に専念しました。

そしてものの5分で哲学をやさしく伝えられるスキルを失いました。
ヨガ哲学と瞑想は、私にとってあまりにも大きな存在になりすぎました。そしてそれがヨガインストラクターのあるべき形だとも確信しています。
レッスンのおまけではなくて、哲学がヨガのすべてなのです。瞑想のための、アーサナプラクティスなのです。

体操の時間は体操をする、哲学を学ぶ時間は哲学に専念する。
サトヴィカのクラスを、そうさせてください。
(ヨガ哲学講座は、不定期でごくたまに開催しています。)


ライブハウスに入り浸っていた10~20代の頃に
バンマスが「僕たちの次のライブは…」なんてちょっぴり下手なMCをするのを見て、余計なこと喋らなくていいから良い演奏を、良いライブを見せてくれよと思っていたことを思い出すのです。
演奏が良ければ、観客は自然とCDを買うし次のライブを調べるから…って
CDの宣伝とか次のライブのお知らせだとか、メンバー紹介だとか、たどたどしいMCしなくて良し!って

そして大好きなギターバンドのライブを観に行ったら、MCは一言でした。
法に触れそうなのでここには書けないような言葉でしたが。それが超絶かっこよかった。

コミュニケーションツールは、言葉だけではない。
10代やそこらの私が、確かにその音楽や空気というエネルギーに圧倒されていて、そう感じていたことがまぎれもない事実。

ヨガは、エネルギーワークです。
チャクラを浄化してクンダリニーの覚醒を目指さないヨガは、ヨガではありません。
体操かられっきとしたエネルギーワークに昇華したヨガを、これからもこの場所で伝え続けたいと思います。